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「信じる事の狂おしさ、愛おしさを教えてくれる砂漠の奇蹟」イスラム教の聖典・コーランを読んだ話

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イスラーム、ユダヤ教。そしてキリスト教。
この三宗教をアブラハムの宗教と呼びます。セム族の啓示宗教とも呼ばれます。

共通した特徴として、神からの啓示・聖典を重要視します。
コーラン、旧約聖書、新約聖書。何度も読み、何度も朗読します。
因みに「コーラン(القرآن)」の意味は「読誦すべきもの」です。

押し並べて唯一神教です。
そしてこの三宗教は言葉や形、時代は違えど全て同じ神を信仰し畏れています。

この三宗教は共通して聖典を持っています。歴史、教義の話などは幾らでも他サイトにあると思いますので視点を変えて、言語学の観点からこの三宗教について軽く掘り下げていきましょう。

言語学から紐解くセム族の啓示宗教

東京・下北沢 カトリック世田谷協会

世界で一番売れた本は聖書です。
発行数の記述にはブレがありますが、3,200以上の言語に翻訳されているという事実だけで途轍も無い説得力を感じます。国連加盟国数が196ヶ国ですから驚きです。アイヌ語版聖書さえあるそうです。

聖書は旧約聖書・新約聖書からなります。
上記はイエス以前を神との旧い契約、以後を新しい契約とするキリスト教的呼称です。
キリスト教徒はこの両書を同列に尊び聖典として扱います。

キリスト教の創始者であるナザレのイエスは磔によって処刑された後に復活し、こう仰られました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」 新約聖書・マルコによる福音書 16章14

こう告げられたイエスの弟子・使徒達はイエスの言葉(=福音)を伝える・つまりキリスト教伝導の為、エルサレムを出て長い宣教の旅へと出発することとなります。

この宣教の旅は主に地中海世界にて行われました。以上の事由により新約聖書は、当時の地中海世界の共通言語であったコイネーギリシア語で書かれました。

古代ギリシア語:Κοινὴ Ἑλληνική / コイネー・ヘッレーニケー
コイネーギリシア語:ἡ κοινή διάλεκτος / エ・キネ・デャレクトス
現代ギリシア語:Ελληνιστική Κοινή / エリニスティキ・キニ

「コイネーギリシア語」のギリシア語表記です。時代と共に大きく変化していることが見て取れます。

ギリシア語で聖書はβιβλία(ビブリア)と呼びます。英語のBibleの語源もコレです。
βιβλίαは元々は書物という意味で、語源は紙の材料であるパピルスの髄の部分の名称βιβλίον(ビブリオン)の複数形です。パピルスの主要輸出地であった古代エジプトの町・ビブロスがβιβλίονの語源です。

ユダヤ教徒はヘブライ語聖書を聖典としているとされています。
これはキリスト教的呼称における旧約聖書(のみ)を指し、ヘブライ語でתנ״ך(タナハ)と呼びます。

ヘブライ語はアラビア語と同じセム語族に属する古代イスラエルで話されていた言語で、セムとはノアの息子の名前です。セム語族の特徴は右から左に書くこと、基本的に母音を記述しない事などが挙げられます。「ggrks(ググレカス)」「kwsk(詳しく)」のように書くということです。

このような母音を表記しない文字をアブジャド(أبجد‎)と呼びます。
これはアラビア文字の文字順序から来ており、最初の ا (ʾ)と ب(b) と ج(j) と د(d) で「ʼbjd」です。コレに母音を足してʼabujad、abjadです。
母音は文脈などから類推するしかありません。

元の単語を知っていれば先述した「ggrks」「kwsk」はすんなり読めるはずです。日本語に限らずどの言語であっても、基本的な語彙力があれば母音を抜かして表記しても大筋の意味は理解可能です。
HND Th Pwr of Drms → HONDA The Power of Dreams
Untd Kngdm of Grt Brtn and Nrthrn Irlnd → United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
語頭以外の母音を蹴落としましたが雰囲気で何となく読めますね。

更にセム語族は母音が少ないのも特徴的です。例としてアラビア語はa,i,uの三音しかありません。
よって母音のパターンも少なくなる事も相まって、特に不便はしないそうです。

ヘブライ語の話し言葉は、西暦200年頃に一度絶滅しています。
しかし熱心な研究の成果と普及への努力の結果、1,800年の時を経て再び復活しユダヤ人国家・イスラエル(יִשְׂרָאֵל‎)の公用語として日常生活で一般的に広く使用されています。

人類の言語史の中でこのような劇的な復活を遂げた言語はヘブライ語のみです。
ユダヤ人の敬虔さや、自分の国を持ちたいという思いの強さを測れる一つの実例だと私は感じます。

余談ですが、上記の「母音を記述しない」「ヘブライ語の口語は一度絶滅した」等の理由により、モーセに啓示された聖書に登場する神の名である「יהוה‎」の正確な発音は今でも分かっていません。
「יהוה‎」をラテン文字に翻訳すると「YHWH」「YHVH」「JHWH」「JHVH」などのようになり、ここに母音を振るので様々な読み方が考えられます。エホバもこの一種です。
本記事においては「ヤハウェ」と表記することとします。(ヤハウェ – Wikipedia

東京ジャーミイ(東京・代々木上原にある日本最大のモスク)

一方イスラームにおいてはコーランを聖典としています。
神・الله/アッラーは西暦610年頃、洞窟で瞑想していた預言者ムハンマドに天使を通じアラビア語で啓示を下しました。この啓示を記録したものがコーランですので、当然アラビア語で記述されています。

アラビア語は非常に広い範囲で話されており、同じ言語とは思えない程様々な方言があります。
日常で使われている話し言葉を「アーンミーヤ(اللغة العامية‎)」と呼びます。

一方書き言葉は「フスハー(اللغة العربية الفصحى)」と呼ばれており、コーランはフスハーで書かれています。
様々な方言が存在するアラビア語においてフスハーは誰でも分かる標準語、共通語として機能しています。そしてこのフスハーは7世紀頃から現在までの1,300年間、ほぼ形を変えていません。

古典アラビア語はサンスクリットや古典中国語、ラテン語と並び世界を席巻した教養語です。
しかしこの中で、現代においても分裂したりせずほぼ形を変えないままフスハーとして残っており、かつ一般的に日常で使用されているのはアラビア語だけです。

日本で言えば平安時代無くなった平仮名は数多くあります
英語はフランス語からの借用語だらけだったり、そのフランス語もラテン語の口語が元になっていたり(ロマンス諸語)、そもそも7世紀の英語の文献なんてほぼ存在しなかったり…。
ギリシア語もかなり形が変わっていましたよね。上記を考慮するとこちらもムスリム(イスラム教徒)の敬虔さ、イスラーム社会の繁栄具合が想像できるエピソードの一つと言えると思います。

実は現代の西洋医学の原型はイスラーム医学だったり…とかね。
「アルコール」「アルカリ」「アルゴリズム」など…「アル」はアラビア語の定冠詞(theみたいなもん)です。
コーランはアラビア語でالقرآن(al-Qurʾān・アル・クルアーン)です。ここにもalが見られます。

現在のイラクの首都であるバグダードは、産業革命以前では最大の都市です。
当時はアッバース朝ですね。知恵の館と呼ばれる図書館と天文台があり、当時最先端の研究が為されていました。彦星「アルタイル」、また「アルデバラン」なんかもアラビア語由来です。
ちなみにコーランでは、流星は天界の会話を盗み聞きしに来る悪魔シャイターン(サタン)を追い払う礫とされています。悪魔もなかなか大変そうです。

コーランはイスラームの聖典であると同時に、奇蹟のアラビア文学とされています。
当時のアラブ人の間では、揉め事が起きた際に詩で勝敗を決する風習があったそうです。
そこら中でラップバトルしてるような物です。詩人の呪詛は剣より恐ろしい物であるというのが当時のアラブ人達の共通認識だったことからも、如何に本気で詩バトルをしていたかが伺えます。

其の為、当然アラブ人は皆が詩に長けていたという事になります。そんなアラブ人を全員黙らせる程の美しい詩であり、アラビア語が読めない人ですらその美しさに惹かれ改宗した…それこそが神の奇蹟であり、コーランの美しさなのです。

少しコーランが読みたくなりませんか?
それでは再度視点を変え、再びこの三宗教について考えてみましょう。

最後の預言者ムハンマドの素顔・コーランの神憑り的な「美」

この三宗教はセム族の啓示宗教とも呼ばれる通り、ザックリ言えば共通して神が預言者を通じて人間に神兆を与えたり、啓示を下す話です。普通の人間は神の存在を自然には感じられず、預言者を通じてしか神の言葉を聞けないのです。コーランには「経典の原本は天界の言葉で書かれており人間には理解出来ない物である。神がその時々(時代)や相手(民族)に応じて人間の言葉で預言者に伝えている」との趣旨の記載があります。

イエスを含む聖書までの預言者は共通して物語や譬え(たとえ)の様な形で、直接的でなく少し迂遠に神の言葉を民に教えています。
また預言者が神と話す際は概ね他に人が居ない、人目につかない場所で話すのも特徴的です。
様々な理由はあると思いますが、それ程までに神の言葉は畏れ多い物なのです。恐らく唯一神教徒のこの感覚は私達現代の日本人の想像を遥かに超えた物だと思います。それ程までに神は完全で、慈悲深くも恐ろしいのです。

預言者はイエス以前にも何人も現れています。
旧約聖書に登場する方舟のノア、信仰の父アブラハム、紅海を割ったモーセなど。イスラム教では更にイエス・ムハンマドを加えた預言者を5大預言者として認め、かつその他の預言者も認めています。

まことに、信仰ある人々(イスラム教徒=ムスリム)、ユダヤ教を奉ずる人々、キリスト教徒、それにサバ人(ユダヤ的キリスト教の一宗派)まど、誰であれアッラーを信仰し、最後(死後の審判)の日を信じ、正しいことを行う者、そのような者はやがて主から御褒美を頂戴するであろう。彼らには何も恐ろしいことは起りはせぬ。決して悲しい目にも逢うことはない。 コーラン 牝牛59

コーランにも上記のように書かれています。
排他的なイメージを持たれる事が多いイスラームですが、根本的にはユダヤ教徒・キリスト教徒を受け入れ調和する、後発宗教らしい平和的な宗教言えるでしょう。

さて、預言者目線で続きを見ていきましょう。
イスラームの預言者はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(محمد بن عبد اللّه)です。
商人だったムハンマドは40歳の頃に、人生に思う所があり洞窟に篭って瞑想をしていました。
そこに大天使ジブリールが現れ、神・アッラーから啓示を受けた…なんて生易しい物ではありません。
ここにコーランの大きな特徴があります。

ジブリールはおもむろにムハンマドの首根っこを掴んで宙に持ち上げ、「誦め。」と命じました。ムハンマドは文盲だった為「誦めません」と断ったそうですが、断る度にジブリールに窒息死ぬ寸前まで体を締め上げられギリギリで放されて再度「誦め。」と命じました。この無限ループです。
ムハンマドは3回断り_その度に計3回死にかける羽目になり、堪らず最後に神の言葉を巫人的に発語する事となります。

こうしてالله/アッラーから啓示を受け預言者(神の言葉を預かり民衆に伝える人)となったムハンマドは激しく痙攣し、倒れて泡を吹き、半狂乱となり神憑りの様な独特のリズムで奇怪な美に満ちた激しい詩を叫ぶように吐き出したと言われています。
訳が分からず神兆や神の声に怯え、妻ハディージャの胸に泣きつく程であったとされています。

つまり、コーランは本質的には「詩」であると言えます。
「コーラン(القرآن)」の意味は「読誦すべきもの」であることからも上記は読み取れますし、句の長短こそまるで砂丘のようにバラバラでありながら、句末ではキッチリと固く押韻されています。
神から啓示された荘厳な詩が、凛としてオリエンタルでありながらもどこか悲壮を感じるアラビア語の美しい響きで読誦されたまさにその時、コーランが完成するのです。これは一聴の価値があります。
コーランは文学としても、音楽としても至高で奇蹟の芸術作品であると言えます。

話を戻しましょう。
ムハンマドへの啓示は20年ほど続き、徐々に慣れていく事である程度は普通に話せるようになったようです。しかし神憑り的であったという事については最後まで本質的に変化はなく、次元の違う意識状態であった為に啓示を受けて発語している最中の記憶も本人にはなかったようです。

後半期には信者から相続等に関する立法的な質問を受ける事が多くなったようです。
上記の事情により前半期は短く激しい巫人的な啓示が多く、徐々に説話的になり、後半は決まり事などの長ったらしい章が多くなります。
啓示は信者などにより記録され、後年に長い順に編纂されました。
つまり基本的には新しい啓示から旧い啓示に向かうという事になります。

つまりコーランは、ムハンマドが自己意識を喪い、神憑りの様に語りだした不思議な言葉を記録したものであると言えます。比較的内容が激しく詩的でストレートです。

そんな力強いコーランは更に、読み進める度に章が短くなっていき、更に激しく詩的になっていくのです
この感覚は、最早神に近づいていく感覚に等しいです。
クライマックスに向かい、狂乱で短く重くなり、神を近くに感じ、そこが始まりなのです。
非常にドラマチックで、ロマンチックではありませんか?

宗教を知れば思考回路が分かります。
思考回路が分かれば歴史・世界情勢が非常に理解しやすくなります。
パレスチナ・イスラエル問題はロケット弾で始まった訳ではありません。
彼らの間にはマリアナ海溝より深い溝があります。

イスラエル・ネタニヤフ首相は「私はヒト型の動物と戦闘している」と発言しました。
一方イスラム圏では人を動物に例える事は冗談でもあり得ません。
例としては、猫の名前にはミミやノノのような連続する2音、またはアンバー(これもアラビア語由来です)などのような人にはつけられない名前を使うように配慮する程です。

倫理観のボーダーを下げ、動物として敵対勢力と相対するか。
敵対する人間を、同じ人間として認識しながらも排除するか。

どちらが良いという話では当然ありませんが、考えの違いは少しばかり汲み取れます。

聖地メッカを擁するサウジアラビアの国旗。
「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である( لا إله إلا الله محمد رسول الله‎)」というシャハーダ(信仰告白)がアラビア書道で書かれている。

まとめ・西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」に垣間見るイスラーム(الإسلام)の心

言語学に始まり、様々な視点からコーランについて考えてみました。
ここからは完全なる私視点で。

汝らみなアッラーのお傍に連れ戻されて、一人一人の魂がそれぞれに自分の稼いだ分だけきっちり払い戻して頂く。あの(死後の審判)を畏れるがよい。その時こそ、誰一人不当な報いを受ける者はいない。 コーラン 牝牛281

汝らが心のうちをさらけ出そうとも、包み隠そうとも、アッラーは汝らとその決済を付け給う。誰を赦し、誰を罰し給うかはすべて御心のまま。アッラーは全能におわします。 コーラン 牝牛284

コーランには上記のような「お前達の事は神様が一番ご存知。アッラーは全てを知り給うお方で、全てを記録し給う。」というようなフレーズが頻出します。
神には一切嘘は吐けず、善行も悪行も心の中まで完璧に記録されており審判されるのです。
「バレなければいい」と言う考えは存在しえません。何故ならالله/アッラーは全知全能の神だから。

神様の在・不在は置いておいても、それ以前に自分に嘘は吐けません。
私が今まで犯してきた罪は数え切れないもので、嘘も散々吐きました。
その行為は確実に自分の魂を穢す行為であったと思います。魂を穢す=天に恥ずかしい行為であり、それは同時に自己肯定感を下げ精神に歪みを生じさせる行為であったのだと思います。

私のフラつく道徳心を常に抑えられるのは、唯一神教的な強力な倫理ではないかと感じました。
ちょうど歴史や情勢に興味を持っていた事、英語を勉強していたこともあり、タイミングも良く聖書・コーランを手に取りました。
私に足りない物の答えを、人としての道徳を、神の言葉に求めました。

結果的に啓典に出会えた事を感謝しています。日々の出来事に感謝する心を持てるようになり、常に天に恥ずかしくない行動を取る事で自分の中にブレない強い芯が出来たように感じています。

西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」だったそうです。

「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。 天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

天を敬う。お天道様に恥ずかしくない行いをする。
人類の理解を超越した完全な存在である、唯一神・الله/アッラーは当然人の心の奥底まで全てご存知です。
其の為に思いを尽くして、人間は心を神に捧げなければならないのです。

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空そらの鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人ひとを創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 旧約聖書・創世記 1章26-28

天地創造の6日目に神(יהוה‎/ヤハウェ=الله/アッラー)は自分に似た者・神に姿を似せて人間を創造し、祝福したとされています。
よって、神を愛するように神が祝福した存在である人間を愛さなければなりません。神を愛するように自分を愛し、他人を愛するのです。
隣人愛の原点はここにあると共に、「道」「敬天愛人」に唯一神教の根本と通ずる物を強く感じます。

また、実際本当に真理だと思います。自分を愛せない人間が人を健全に愛せる訳が無いのです。
精神疾患・パーソナリティ障害などの大概の原因は自己肯定感の低さや愛着障害にあります。少なくとも上記が大きなリスクファクターであるということは揺るぎようの無い事実です。
独立した人間同士であるからこそ、共依存にならずに相手をありのままに愛せるのです。
神を愛すように、自分と他人を愛する。神から与えられた非常に重要な人生のテーマだと思います。

彼率いる薩摩軍は、西南戦争の終末1877年に新政府軍に完全包囲されました。
銃弾を受けて亡くなった西郷隆盛の最期の言葉は「ここらでよか」だったそうです。
天を敬い、自分の人生を愛していたのです。
死という自然の道理に逆らわず、最期までお天道様に感謝していたのです。

さ、こう唱えるがよい
「主よ、貴方にお縋り申します、どうかシャイターン(悪魔サタン)どものそそのかしに乗せられぬようお守りください。貴方にお縋り申します、主よ、彼らにとりつかれないようお守り下さい」と。 
コーラン-信仰者 99

「主にお仕え申せ、必ず来たるべきもの(死)が汝に訪れ来るその時まで。」 コーラン-アル・ヒジュル99」

イスラーム(الإسلام)の意味は「神に帰依すること」です。
創造主である神に全てを委ねて世界に感謝することで、神もまた私達を憐れみ愛して下さり、世界が優しい顔を見せてくれるのです。
こちらもまた、根本は同じと感じます。

「信じる事の狂おしさ、愛おしさを教えてくれる砂漠の奇蹟」
是非、貴方もコーランを手に取ってみませんか?

2024/10/10 加筆修正

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